年末まとめ読書・沼野田中対談〜東京新聞

「震災以後の文学」ということがさかんにいわれる。「東京新聞」の沼野充義文芸時評でも、この観点から見るべき作品を探していたが、ただいまの文芸に疎くなっている私が紙面から受ける印象は低調なものであった。そして、年末恒例の「今年を振り返る」対談でも、時評で言及されてきた作品以上のものは出ず、しかも、川上弘美の「神様」手直しを称揚しているようでは、もはや終わってる感しか漂わない。
 原発による激甚災害の後も、ドラスティックな転換のできない日本社会を、ある意味で象徴しているようであり、その点では考えるべき作品かも知れないけれど。どんなご託を付けようが、小手先の変更で、一応対処しておいた、以上の作品ではない。もともと、「神様」という作品自体が「その他の作品」(文学の大河の中で突出していない一作)であるからには、ファンサービスであると言ってもよかろう。
 マンガの世界で萩尾望都がいちはやく「なのはな」を描いて評価されたのとは非常に対照的である。あるいは、私の知らないところで、「なのはな」レベルの文学もあるのかもしれないが、世評だけを頼りにこれを書いているので、少なくとも、情報としては伝わってこないということだ。
 文学は、この「現実に拮抗する」というよく言われる文芸の価値についての紋切り型を誤解しているのではないか。現実と同じ重さの文学などはない。20世紀の戦争の歴史とそれを描いた多くの文学を振り返ってみればわかるように、その現実の実体を、どんな芸術でも描くことなどできはしない。文学は……もともと哲学とくくられていたように、きわめて観念的であり、思想的なものだ。誤解のないように言っておくと、それは文学の中で直接思想が語られるということではない。小説を書くこと自体が、何らかの思想に基づいて行われているということである。重い現実を前に言葉を失う、といった紋切り型も、ばかばかしさの極みである。いつだって現実は重い。そんなことも知らずに文学が出来るか。
 また、実際問題として、言葉の重みは、下落し続けていて、重い現実の前で言葉を使うことの軽さに眩暈を覚えることもあるだろう。しかし、言葉がついに無力になってしまうことは、決してない。
 「震災後」であれなんであれ、作家は観念で現実と対峙するほかない。それを作品にするまでに時間がかかる人もいるだろうから、すぐに何か傑作が出ることを期待するのも間違っていると思う。震災を直接的に扱えば良いというものでもない。誰か『ペスト』みたいな、昇華された作品を書くかも知れないではないか。そのとき、文芸評論家は、それと認識できるだろうか。
 和合亮一についてもふれ、詩の手法の転換について、これでいいのかというふうに言及されている。被災者のつぶやきで注目されてしまった(?)和合だが、今後、やはり、この「名前が売れた」体験も含めて、思想的に一歩も二歩も進み、新しい詩の境地を開かないとも限らない。
 震災による最大の被害、原発災害は、たった今も、続いている現実なのである。

 私にとっても、今年はたいへんに個人的につらい年であった。原発問題も含め、そのすべての現実を前に、やはり書きたいものは変わらない。なぜなら、それは結局「人間とは何か」を考える、私なりの試みに他ならないからである。さて、それが完成するかどうかは、きわめて危うい感じはするけれども(笑)。