日高六郎のエッセー

日高六郎セレクション (岩波現代文庫)

日高六郎セレクション (岩波現代文庫)

1950年代に書かれた論文を中心としたアンソロジー。ほとんどがまだ生まれていない時期に書かれているのだが……現代のことを書いているよう。60年にわたって変化がないのか……それとも、50〜60年代に少しは変化したけれども揺り戻しがあって元に戻ったのか。このエッセー集には、「今が分岐点」的な感覚がしばしば見られるので、たぶん、何かはあったのだろう。けれども。そう、例えば「エアコン取るか教養を取るか」的な分岐点だと言っているのを見れば、そりゃエアコンを取るよね……と思わざるを得ないから、根本のところで連続なんだろうという気がする。
はなはだ曖昧な書き方になってしまったが……。「日本社会の構造とそのゆがみ」という名エッセーから引用。

われわれは数多くの異質的な行動様式の体系にかこまれており、従って時とばあいに応じて、ことなった原理にもとづく異質的な行動様式をとることが期待されている。いわゆる「場所がら」を心得たものが人格者として尊敬される。しかしこの「場所がら」はどんなに複雑なことであろう。(略)しかしこの「場所がら」をわきまえるということは、心理的な自然のゆれ動きを尊重するというヨーロッパ的なモラリスト精神とはまったく別のものであり、むしろ社会的に慣習化され制度化された行動の準則に近い。しかもその準則に限りなく微妙なニュアンスをおりこむことが要求されるために、人間関係はたえまない緊張と配慮の連続となりやすい。(略)このことをキンボール・ヤングは、日本人が「固定化せず、理解できない世界を極度に恐れること」として指摘しているが、大家から茶の湯に招待されて、困惑のあまり夜逃げしようとする店子について語る落語は、まさしくこの恐怖をたくみについている。(略)このことと連関することであるが、どのような場合にも平常心を失わないことを目標とするような「精神修養」が盛んに奨励されるのも、このような当惑の機会からのがれるための、日本的な自己防御の方法にちがいない。時にはそれはすべての「身分」や「場所がら」に頓着しないというような、「修養の極致」を打ちひらこうとする。この境地における行動の一種の自然さは、むしろ、最大限に人工的な工夫の結果到達することができるものであることに注意せよ。逆説的にいえば、このような工人とその結果がとくに珍重されるのは、行動の自発的な自然さを妨げる複雑微妙な行動の準則が、どんなにわれわれをがんじがらめにしているかということ、またいかに数多くの矛盾した社会的期待が個人に要求されているかということを証明するものだといえよう。