世界文学とは何か?

世界文学とは何か?

世界文学とは何か?

最近、〈世界文学〉という言葉をよく耳にするようになった。もとともはゲーテが使い始めた言葉だが、最近のそれは、ゲーテの言葉を原典としている気配はなく、単に「世界で読まれる文学」というような意味で使われているように思われる。
「世界文学」がクローズアップされている背景には、村上春樹の世界的な知名度の高まりがある。日本文学は、諸外国語への翻訳状況が著しく非対称であるため(つまり輸入超過なので)、ローカル文学というイメージを、日本人自身が抱いているだろう。私小説の伝統を持つというイメージがそれを後押しする。しかし、ハルキの世界的な人気の高さを目にして、「世界文学」という意識が目覚めたもののようである。
なにがなし、ばからしい感じがするのは、最近、というか、バブル以後の「自虐史観」がどうたらこうたらと言われ始めたあたりから、「自信を失った日本人」→「日本人を鼓舞する世界的業績の称揚」というパターンが、ばかみたいに幅をきかせるようになったことと無縁ではないからである。
国民は……などとひとくくりにするのもまたばからしいが……もっと現実に目を向けたらどうだろうか。
ともかくも、「世界文学」に目が向けられている状況だというので、こんな本も翻訳出版された。著者はハバ大の比較文学の先生だ。あちらの大学には「世界文学」という科目があるらしくて、それを学生(今の日本と似たり寄ったりで文学部にいても文学的知識はあまりない。もっともハバ大なのだから、東大生よりはマシだろう)に教えているようなのだが、先日書いた「新しい正義」とのような、学生のための教科書という感じはあまりない。むしろ、「世界文学」を教えているような先生方、研究者に対して、もっと視野を広く持てとはっぱをかけるような本である。
ゲーテの「世界文学」の話題から始めて、翻訳(超訳・編集)問題、文学の正典(canon)をめぐる問題、ローカル文学と普遍的文学の関係など、多岐にわたって論じている。そして著者なりの世界文学とは何か、という定義をまとめあげている。簡単に言えば、文学はローカル(時代・場所において)なものだが、普遍性を持っている、という当たり前のことだ。十全でなくとも翻訳可能性がある、というよりは、より積極的に翻訳によって作品世界が広がる可能性がある、ということである。それは、読者がその気になれば、そこに世界文学がある、ということでもある。つまり、読者もあまりにローカルに(自分本位に)読まないことが肝心なのだ。私の知らないローカルがそこにある、同時に、私の知っている何かがある、これが世界文学ということだ。
自分が関わった『あらすじ大事典』に触れていたり、女性神秘家メティヒルトの項目があったりと、ほぼすべてのところで興味が重なり、500頁に及ぶ大冊だが、読み始めたらあっという間に読み終えてしまった。
著者は数カ国語をこなすようだが、そのような語学の練達の立場から翻訳問題を論じている箇所は特におもしろかった。翻訳家であることを誇りとする多くの知人がいるが、そういう人たちにもおすすめしたい本である。