詩を殺す

コーラスを再開し、細々とうたっている。
なぜか現代詩を用いた現代曲が中心で、今は、近年人気の高い信長貴富という人の作品を歌ったりしている。
茨木のり子の詩を用いた信長作曲「ぎらりと光るダイヤのような」がとても良い曲で、歌っていて面白い。
茨木の詩というのは、わかりやすく、抒情的プロパガンダのような感じがする。まあつまり、説教臭い。表題詩などは、かなり若いころの作品であり、詩だけを読むと「勘弁して」と言いたくなるような説教臭さで、世代ギャップも感じざるを得ない。そして、もはやこの年齢になると、この詩の思想は青臭くて、人生というものを理解してない、という感じばかりする。にもかかわらず、歌になってしまうと面白い。信長の曲は、軽いジャズ調で、深刻さがなく、軽快なのだ。「銃殺の朝」などという歌詞を軽くカッコよく「歌って」しまう。ここでは、詩そのものが変質せざるを得ない。
つまるところ、現代詩に限らず、詩を歌にする、ということは、詩に改変を迫るということだ。詩には独特の韻律がある。詩を詩たらしめるのは韻律であるという意見はごく一般的なものである。それを音楽に乗せる、ということは、その詩独特の韻律を破壊するということにほかならない。私はそう考える。作曲家は、韻律を壊さぬように、曲を考えるのであろうが、ものには限界がある。歌われてしまうと、メロディーなしに、詩を考えることは非常に難しくなる。
たとえば八木重吉の「雨」という有名な詩がある。「雨のおとがきこえる/雨がふつてゐたのだ/あのおとのようにそつと/世のためにはたらいてゐよう……」という詩だが、私は、まず多田武彦の曲でこの詩を知ったため、その音楽なしに、この詩を読むことができない。音楽を締め出してむりやり朗読でもしようものなら、この詩にまったくなんの魅力も感じない。多田のこの作品は名曲である。だから、この、「雨ニモ負ケズ」にも負けない説教臭さのこの詩は、聞いている人を泣かせるほどの力を持っている。おそらく、詩そのものを読んだ時よりもずっと……。
だから、詩を殺すのは簡単だ。その詩の韻律や情緒からずれた、そして口にのぼせやすい曲をつければよい。
反対に考えれば、五感に直接訴える力の強い音楽は、人の思想をも左右する。「雨」がすばらしい曲なので、「雨」のような生き方にあこがれる心を人々の中に喚起する、ということだ。ろくでもない歌詞でも、魅力的な音楽ならば心の中に根を下ろす。「海ゆかば」のような曲は恐ろしい。とても恐ろしいと思う。