ありふれた才気型

長男が自炊用の安いスキャナーを購入したので、返品されてきた『幻想文学』に使ってみた。
 『幻想文学』のPDFは、41号以降はDTPからの変換、それ以前のものは普通のスキャナでやっている。『幻想文学』の古い号は、手元には一冊ずつしかないので、解体する気になれないから。返品は38-40号で、在庫があり、かつDTPではない、という、まれな一部分。つまりこの三冊しか解体・スキャンはできない。この三冊プラスアルファは、また再生紙を使った束のあるもので、見開きスキャンがしにくいので、幸いと言えば幸いではあった。ともかくやってみたが、スキャニングの精度が悪く(さすがに安いだけのことはある)、高精度でやってもいまいちなできばえ。ともあれ、三つのPDFを作った。
 そして、合間にちらちらと内容を読んでいると(『幻想文学』というのはたいへんにおもしろい雑誌なのであると自讃)、堀切直人花田清輝論に行き当たり、考えさせられた。これは、暴力と日本人について、花田の姿勢をからめつつ論じた秀逸な一編である。まず、金容雲『日本の喜劇』から、韓国人と比較しての日本人論についての紹介から始まる。

日本の自然は暴力的であり、そのままでは住みづらいけれど、人手を加えるなら、食糧その他の面で生産性を確実に高められるので、人々はおのずと勤勉にならざるをえない。そのかわり、日本人は目先の具体的な事柄には一所懸命だが、大局的には倫理的論理的一貫性に乏しく、すこぶる場当たり的、ご都合主義的である。


 暴力的な自然というのはその通りで、この部分はまったくその通りだと思う。しかし、日本人に限ったことではない、自然が暴力的なので、それに対処して生きる、ということから、人間は場当たり的で非倫理的になるのだ。普遍的な話だ。

日本は一般に農民を中心とする集団志向の強い社会といわれるが、それ以上に武力が物をいう軍人の社会というべきであり、開拓と戦争が日本史を一貫するライトモチーフである。サムライ、この荒ぶる男たちは性すこぶる実際的で、競争心が強く、暴力と死の原理の上に生きている。

 韓国人の著作だから、明らかにバイアスがかかっている。中国だって西洋だって似たようなものである。アメリカなんぞはもっと激しくそうだろう。
 農業地帯では、上層部(サムライ)と下層部(農民)とに分かれており、下層から抜け出すためには、戦闘的にならざるを得ず、下層で生きるためには上層に従順でなければならない、というようなことも言えるだろう。
 ……本題はこのあとだ。堀切は暴力的日本から逃れる方法があるだろう、と言う。そして花田清輝の著作がその指針となるだろうと述べる。花田もまた日本が有史以来、戦争に彩られ、戦争的文化だと言っている。(科学技術は全世界的に見て、戦争と権力掌握のために発展してきたのだし、それをもとに文化の半ば以上が築かれているのだから、やっぱり日本だけの話ではないとは思う。それはさておき)それに抵抗するためには負けるよりほかない、と意思表明する。もちろんこれは、〈本当に負けている人々〉からすれば、芸術家の戯言でしかないだろう。実際、花田は逸一世を風靡した論客で、吉本隆明との論争に敗れてこの意思を表明する契機を掴んだとおぼしいのだから、志としてはどうあれ、現実は〈負けていない人の余裕の言〉だ。破滅型私小説芥川賞、みたいな矛盾である。
 しかし、まあ、志はあるのであって、それが歴史小説三部作に結実している。

『鳥獣戯話』『小説平家』『室町小説集』は、一言でいえば、日本人の心を永らく呪縛してきた武家的なものを生涯を賭けて批判し、抵抗しつづけた者たちの列伝である。

 堀切はこのように述べて、〈負ける芸〉を描き、それを生の指針として示した花田を称揚する。中でも最大の傑作が「大秘事」であると結論づけているが、その小説中には、亀という女性が登場する。

利用できるものなら、手あたりしだいになんでも利用し、いったん、利用価値なしとみるや否や、それまで利用してきたものに、あっさり、暇をくれてやり、脇目もふらずに勝利への道を走り続ける、ありふれた才女型の人物

 ようやくたどりついた。花田のこの一節が引用したかったのだ。亀は、花田が大好きな非暴力的で献身的活動型の女の子(ナウシカ類型)ではなく、否定的に描かれるやり手の女性である。世に〈成功者〉と言われる人々のやり方は、おおむねこれを踏襲する。〈女〉という属性を取り払ってしまえば〈ありふれた才気型〉。
 このありふれた才気は、基本的に視野狭窄である。〈脇目もふらない〉わけだから。視野を広く持ち、深く考えたり思いやったりすれば、〈切り捨て〉には、大きな苦痛が伴うはずで、それでは、とてもひた走っていけないからである。
 ありふれた才気型は、冒頭における日本人気質、というより、広く努力型の人間の本性であるとも言えるだろう。
 成功などはありふれたこと。しかし、その成功する才能をもってして、負ける芸に徹することこそ至難のこと。花田はそのように考え、自分は負けたいと思うわけである。花田は結果的に負けたろうか? わからない。
 私などは、この〈負ける芸術家〉について考えるとき、畏友・西村有望のことなどを考えてしまう。(ごめんなさい、亡月王、現実とは違うのかもしれないけれど。)負けることは、難しい。私にはとても出来ない、と思う。