批評眼とか見識とか

批評眼は一朝一夕には出来あがらない。たくさんたくさん鑑賞しないと、良し悪しも価値もわからない。これは詩歌など、短詩型文学や、書のように素人にはサッパリなものを考えるとわかりやすい。経験の少ない素人が自分なりの好悪の判断をする時には、とんちんかんな判断も許されよう。しかし、経験を積んでいるはずのプロの批評家は、批評眼を問われるのであり、その見識を問題とされるのが当然である。
試金石となるような作品はいくつかあって、こんなのやあんなのを褒めている時に、そいつには本当の意味での批評眼なんかない、と私は考える。もちろん他の批評家も、私があんなのやこんなのを褒めたり貶したりしているのだから、全然読めちゃいない、とか考えているのであろう。
さて、9/11東京新聞渡部直己インタビューでは、「今の若者は読み物と文学の区別がついていない。……文学とはそれと出会ったがゆえに自らが変わるもの」という、説得力に著しく欠ける文言に始まり、最後は川上未映子を褒めて締めくくっている。「川上未映子さんのようなすごい新人がぽんと降ってきた。十年に一度くらいはいいことがある」と。川上未映子は十年に一度の事件なのか? こんな言説に、純文学ジャンルの作家はすべて怒ってよいのでは? この十年にデビューしたあなた、あなた、あなたたち。
それにしても、ある小説家をここまですごいと断定することは、批評家としての自分をさらすことになる。批評眼がないことや見識がないことをあからさまにしてしまう。よくもこんなことができる、と感心する。私は時として恐くてそれができないこともある。そしてしばしば相対的視点に逃げる。
また、否定的な見解は比較的出しやすいが、絶対肯定は、やがて裏切られるリスクと無縁ではない。しかも、裏切られた時に、裏切ったその小説家を呪うことは出来ない。それをそのように見たのは自分だからである。
おそらく渡部は、裏切られることを気にしてはいないのだろう。そして、こんなほめ方をしたことも。やがて絶対的肯定をしたことなども忘れてしまうのだろうか。