好き好き大好きと言っておく

 津原泰水の『瑠璃玉の耳輪』が刊行された。ウェブとは面目を一新したらしい。未読。

琉璃玉の耳輪

琉璃玉の耳輪

 本人から電話が来て、尾崎翠って好き?と聞くので、いや別に好きではない、と答えた(ちなみに事典では私は尾崎には触れていない。だから、若い頃に読んだ単行本の『第七官界彷徨』以外の作品を、以来読んでいないままの感想である。今読めば違う感想かも知れない)。幻想文学に関わっていると、尾崎、久生十蘭澁澤龍彦三島由紀夫……など、好きでないことで幻想文学に関わる資格を疑われるような作家がいる。好き、と評価することとを混同するのだろう。「好きか?って聞くな」と言いたい。で、そんなことを津原泰水に話していると、それは営業上の設問なのだ、という。好きなら、仕事が頼める、と。ああ、つまり、好きなら、積極的に良い批評を書くという期待が持てるという印象を相手に与えるということなのだ。好きか?と聞かれて、好きだと答えたことがほとんどない私は……これからは、評価する作品についてはどれもこれも、好き好き大好きとっても好きと答えることにしよう。
好きならうまい批評が書けるのか?というと、それは違うと思う。良い、というか熱のこもった批評を書くために必要なのは、好き嫌いではなく、どれだけ高く評価しているか、その作品に価値を認めているか、ということだ。また、批評意欲をかきたてる作品というものもあり、読めば誰にでもわかるような作品については、うまく書けるような気がしない。例えば、私は皆川博子の『冬の旅人』について、良い評論が書けるだろうと考えるが、これは、皆川さんから、一部の理解を得られなかったという話を聞いているからで、読み切れない人がいることを知っているので、作品の核心についてわざわざ書く気になるということなのである。批評を書くのは簡単なことではないから、モチベーションが何より重要である。それは……評価されてしかるべき作品が真っ当に評価されない、あるいは哀れな誤読にさらされている、という時に生まれるのであって、素晴らしい作品が、その素晴らしいままに正当に評価されているなら、多大な労苦を担ってまで批評を書く必要なぞ感じないのである。