二つの幻想小説

今日の大波小波では、新人の二つの幻想小説が紹介されている。
一つはマジックリアリズム系の暴力小説のようで、一つは観念的なヴィジョンを描いた小説のようだ。解説からはそう読み取れるが、本当のところはわからないので、タイトルも引用しない。
この二つの小説の前に保坂和志舞城王太郎を取り上げ、凡庸な日常を見つめる小説と、魔術的な幻想に逃れる小説と二つの小説の典型のように書いていて、それ以外の道はないのか、ということで、新人の作品を挙げている。
私はその新人の作品を読んでいないので、何とも言える立場ではないが、この要約からする限り、前者は舞城的で後者は保坂・舞城的だ。保坂はもちろん幻想小説そのものではないが、それに近いものを書いていて、日常の中からヴィジョンを掬い上げるということをする作家である。舞城はいろいろなパターンの小説を書いているが、寓話的なところもマジックリアリズムに近いところもあるわけで、単に場所を具体的に指定していないし、私小説的には書いていないが、現実に根を置いているのは間違いない。三島賞受賞作というのは、詳細は忘れたが、嫉妬に狂ったかなんかした同級生の女子(だったと思う)に頭を割られて臨死体験をする女の子の話である。臨死体験と、自我の奥底の不気味な世界へと降下をしたあげく、近所に跳梁する殺人鬼と繋がってしまうところまでを描いている。
要するにこれらはひどくかけ離れているものではない。
そもそも、保坂と舞城に収斂させる根拠がない。笙野頼子小林恭二多和田葉子小川洋子川上弘美町田康古川日出男津原泰水池上永一エトセトラ……
幻想小説という枠組みで眺める時、様々な小説的試みは為されてきており、そうしたものを一切合切無視して、なぜ新人の作品が新しい可能性などと言えるのだろうか? 
この要約からでは、どう見ても新しい感じはしない、特に前者。『妖都』を越えられてますか?と聞きたくなってしまう。後者は曖昧で読まなければわからんという感じがするが。そもそも『死者の書』に似ているが何にも似ていない、という説明だと、ほとんど、『死者の書』をちゃんと読めてるのか?って感じがしてしまう。
先日の筆洗では、筆写が私よりも若いようなエピソードを語っていた(これこれの時に中学生とかそういうこと)ので、ああ、もうそんな風になっているのかと思い、たいていの評論家などは私より若いのだと思う。まあ物を知らなくても、文章が拙くても仕方ないのか。そう考えても寛容な気分になれるわけではないが。