言語ゲーム

 東京新聞では、新年に「ことば考」の特別版のエッセー・シリーズを掲載しているが、昨日の夕刊は、大石紘一郎という政治学者のもので、カルトの活動を言語ゲームとしてとらえたものだった。ゲームなのでリセットできる、と。リセット云々は洗脳解除のことを言い換えただけだとも言えるが、言語ゲームという点に焦点を絞れば、言語的動物である私たちの生きる世界の幻想性があらわになるだろう。この世はなんとはかないゲームで成立しているものか。
 何度も繰り返して言ってきたことだが、現実は幻想によって大きく動く。言語は幻想を作るのに欠かせない。実体のない、言語のみによって成立する幻想が、現実を傷つける。時には幻想を信じる必要もなく、仕組まれた幻想で世界が動いていく。昨今の金融崩壊現象や派遣雇用問題も幻想の力が大きく働いている。
 それにしても思想はそれなりにリセットできるかもしれないが(難しい場合も多々あるけれど)、現実はリセットできないのである。幻想は共有された段階から現実を変化させていき、それを元に戻すすべはない。その数万年にわたる歴史が私たちをここへと運んできた。現実は傷つき続けるが(傷つかないのは死んだ宇宙だけ)、どのような傷痕を残していくかは、いつでも人間の幻想が、それを支える言語・イメージが選んでいく。私たちはどのような幻想を抱き、どのような言語を使うか、よくよく考えねばならない。