用語の変転その他

 先日の文芸時評では、桜坂洋東浩紀の「キャラクターズ」が取り上げられていた。当該小説を読んでいないが、いずれ遊びで作られたものだろう。東に小説(みたいにマイナーな表現形式)と真剣に切り結ぶ気があるとは思えない。それに関連して、キャラが立つということについて、沼野は、井上ひさしによるチェーホフを題材にした戯曲を取り上げ、「キャラが立っている」とは本当はこういう鮮やかな造形にこそ使うべき表現ではないか、と思った……と書いている。
 「キャラが立っている」という言葉を昔はどう使ったのか、ということを思い出そうとしているのだが、思い出せない。偽善者という普通名詞になったディケンズのペックスニフだとか、スタンダールのジュリアン・ソレルだとか、こういうものに対して、キャラが立っていると批評したりしたか? 自分で書いていてもバカみたいな感じがする。キャラが立つ、とは日常用語で普通に使っている言葉で、批評言語ではないのだろう……とこれまたバカのようなことを思う。
 キャラが立っていると、麻生太郎が自身をしきりに評したのだが、これはおそらくは「個性的で目立つ」という意味で、キャラが立つを誤用しているという感じが強くしてならなかった。言っている人が人だけに不快感が先に立つのか。大塚英志ライトノベル=キャラクター小説というのも、当該書を読んでいない印象だけで言うと、的外れのように思える。ラノベ世代の若い子がどう思うのかはわからないが。
 村山早紀『砂漠の歌姫』という子ども向けファンタジー(このあたりとライトノベルの違いは何か、ということを考え出すと果てもない)を読んだところ、後がきで作者はヒロインを「ツンデレ」ということになるのかもしれない、などと言っている。これは若い世代への媚びという売りのつもりなのか、皆目わからないが、ツンデレというものを理解していないことは明らかで、ほとんど同世代のおばさんがこういうことを言うことに情けないものを感じてしまうのであった。このヒロインの類型パターンは、気が強く、階級差のある相手には心を開こうとしないが、心根の良いタイプ、という、古来、きわめてありふれたパターンで、ギャルゲーや恋愛系ラノベによって類型化されたツンデレとは根本的な相違がある。なぜ、そういう風に引き寄せようとするのか、わからない。意思疎通がかえってしにくくなるのではないのか。
 ウェブ上やラノベやゲームの特殊コミュニティで流通する言語には、一定の意味を与えがたいことが多く、例えば「痛い」という言葉のように、我々までの世代(と大雑派にくくってしまう、下限がどこにあるかは不明)が普通に使う日常言語(というかスラング)と全く異なる意味で使っていることも多い。そういう言葉をむやみに使うと、通じるようでまったく通じないという事態に陥る。
 言語の不通性というのは、昔から言われてきたことだが、こんなにも不定形になっている時代というのはこれまでになかったことだ。言語の通じないところで文学をやるということは……。とはいうものの、小説を読んでいると誤解のしようもない単純な感情が扱われていることがほとんどであるため、実害はほとんどない、というのも確か。若い人の書く文学は、むしろわかりにくくはなく、自分より上の世代の書くものが、どんな意図の元に書かれているのかわからないことの方が多い。
 継続的に小説を読んでいくと、小説の新しさとは何かがわかるようにも思える。今はまだ勉強不足だな。