バベル&ストリングス

シネコンにて。
当然、ネタバレ、というよりも見る楽しみを奪っている。バベルは長い映画で、内容がつまらないので、誰が理不尽に死ぬか、という興味でしか見られないが、その点にも触れている。
どっちも、人はつながっているというテーマで、それぞれにつまらなかった。
後者から言うと、人形劇ものとして、糸が命そのものである点や、糸をそのまま関係性と見立てているアイデアがそれなりにおもしろく、耐水性の木の人形であるので、水を多用している点が興味深かった。つまりは水だらけな画面。しかし美術全体としては、今一歩。天から糸が降りているため、旋回しつつ踊る場面では、反対にも回らないと、糸がねじれてしまうというようなくだらない心配をしてしまう。また、子作り、出産の場面では、非常に納得がいかなかった。しかしとにかく、内容が激越にくだらなくて話にならない上に、草薙をはじめとする声優の大半が下手くそなため、ドラマの点では見るべきものがない。吹き替えしかないようなので、どうしようもない。
バベルは、バタフライ効果というか、風が吹けば桶屋がもうかる、という話で、菊池凛子の出てくるパートだけが異質である。コミュニケーション不全を描いたということで、このバベルというタイトルらしいが、コミュニケーション不全の話はどこにも出てこない。凛子パートにそれを象徴させているつもりなら、聾者をバカにしているのではないか。
都心の億ションに住んでいる金持ちな役所広司(その一人娘が聾者の菊池凛子)はハンティングが趣味で、モロッコでハンティングをした時にガイドのハッサンに自分のライフルをあげた。(日本で登録している銃のようで、国外持ち出し、外国人にプレゼント、などは日本的には違法っぽいが、どうなんだろう? ともあれ、映画の中では何ら問題にはされていない。)ハッサンは友人の山羊飼いアブドゥルがジッャカルを退治したいというのでその銃を売る。アブドゥルは二人の若い息子(15と12くらい? 画面にたぶん年齢が出たろうが、記憶にない)にライフルを渡して、ジャッカルを殺しながら、山羊の面倒を見るように言いつける。兄は弟の方が銃を撃つのが上手いことや、姉の裸を見てマスかいて仕事をさぼることなどに嫉妬して、弟を挑発、遠くの標的を狙わせる。アメリカ人観光客一団が乗ったバスに向けて弟が撃つと、その弾がブラピの妻のケイト・ブランシェットに当たってしまう。ちょうど、超絶的スナイパーの予告編をやっていたのだが、まさにそんな感じの距離感覚であり、方向もおかしいので、もはやファンタジーの領域である。最終的に兄が警察に撃たれ、父と弟は捕まるが、その後どうなったかは描かれない。
 ケイトとブラピは、赤ん坊がいわゆる突然死症候群で死んだために夫婦仲がうまくいっていないのだが、関係修復のために夫が妻をモロッコ・ツアーに誘っていたのだ(なんでモロッコ?)。二人には幼い娘と息子が1人ずついて、メキシコ人のナニーがずっと面倒を見ている(赤ん坊が死んだ時に解雇されなかったのは、やはり相当に信頼されているのだろう)。ケイトが撃たれて入院したので、ナニーはその日に予定されていた息子の結婚式に出られそうもない状況となる。なんとブラピは金を出すので結婚式は延期させればいいと言ったようだ。そんなこと、できるわけないだろう……そこでナニーのアメリア(俳優は誰か知らない)は子供らを連れて国境を越える。結婚式の後、真夜中に酔っ払った甥(ベルナル。デリカシーがなく、調子の良い兄ちゃんを怪演、ほんとに端役)に運転させて国境を越えようとすると、不審がられて(当たり前)、切れた甥は逃走し、あげくに叔母さんと子供たちを車から降ろして遁走する。ナニーは子どもを連れて砂漠をさまよったあげく、彼らを木陰に残して車を探しに行ったところ、警察に捕まり、子どもを遺棄した不法滞在者として即時国外退去を命じられる。これらの全篇を通して、言葉が通じないという状況は描かれていない。みんな身勝手に行動するので、人間はエゴな動物、という印象は受けるが、モロッコの通訳・ガイドは非常に誠実にブラピとケイトの世話をするし、いろいろなところでアメリカ合衆国(ブラピもそれを象徴するキャラでしかない)は威張っているだけな感じに見える。日本のパートはわけがわからず、こういうことのすべての原因を作った善人ぶりっこの金満国家は退廃的で愚か、とでも言いたいのか。要するにメキシコ出身の監督なので、なんやかやと先進国に憧れを抱きつつも批判したいところはあるのだろうし、自分の国だって半分くらいはいやだ、というわけである。不条理感覚もまったくない。アメリアは自分のことを、愚かだっただけと言っているが、まさにそれで、愚かの連続でしかない。愚かさのせいで人が死ぬのは、今に始まったことではないが、サスペンス映画のネタにはなる。つまりサスペンスのための設定。
 凛子パートは、見た目が可愛いのに、聾というハンデのせいで、簡単にナンパが出来ず、男に飢えている色情狂の高校生が、裸をさらして刑事を誘惑しようとするという話。などと要約すると、反感を食うだろうが、凛子の行動は、一般の女子高生としても変で(レベルがかなり低い方)、聾者としてはさらに異様(聾者でこんなにお嬢様なら、はるかに世間知らずに純真に育つだろう。金持ちなのに、お手伝いの一人もいないという設定も奇妙)なので、こんなふうに言いたくなる。(とにかく全篇を通して意味のないエロパートが多いのは、監督のセンスがない証拠。)母親が半年前に銃で自殺しているらしいが、その理由がまったくわからず、シネマオンラインの感想では、凛子と役所が近親相姦で、それを知って母親が自殺……とか推測している人がいたがそれはないだろう(笑)。確かに裸の娘を抱き締める父親のシーンは異様だが……やはり日本のことが何も判っていないせいなんだろう。障害(といっても、さまざまな障害の中では最も軽度な方)のある子を残して、どうして母親が自殺するかな? ブラピが赤ん坊が死んだ時に「逃げた」といい、ケイトは私のせいではなかった、と抗弁しているので、その類の夫婦のいさかいがあったことがわかり、役所のところでも、同じことがあったかもしれないとは推測されるが、それは半年前に死んでしまう理由としては弱い。凛子は言葉では伝えられないので肉体で……という解釈があるようだが、そのへんで既に聾者に対して全く理解がない。むしろ凛子はプライドが高く、聾者であることを受け入れられず、聾者として普通に取るコミュニケーションも放棄して、ただ外見だけで押し通して聾者でない人と立ち交じろうとしているように見える。友だちと一緒の時は、彼女は普通の人に声を発さない。しかし刑事と二人きりのやむを得ぬ時にはしゃべるのだから。もっともかなり重度の聾なのではあろう。……いや、いくら同情的に見ても、全然納得できない。
例の、気分が悪くなるというシーンでは、凛子にとって音のない状況も描かれているのだが、こんなに激しいビートのところで、聾者が音楽を感じないわけはないので、これもいかにも片手落ちな見方だという気がする。
バベルと言い、言葉が届かない、と言う。ならば当然のこと、聾者をもってくるべきではなかったのだ。わざわざ聾者という設定を選んだのだから、そんなことを超える作品なのかと若干の期待がなくもなかったが、やはり問題外であった。
映画館を出る時に、おばさん(いや、私より若い、30代後半から40代前半)たちが、高校生には見えない、おばさんだった、と凛子評を下していた。いや、脱がなければ女子高生に見えなくもなかったよ。女子高生も老けてるから。裸がねー、予告編でも何度も見たけど、運動やっている(バレーボール部という設定)とは思えない締まりのなさで、若くない……。