井上輝夫を偲ぶ会

 今年の8月25日に井上輝夫先生が亡くなった。葬儀は27日に、松本の浅間温泉にある神宮寺で、無宗教で執り行われたけれども、急なことで、また松本という地理の問題もあって、会葬者は限られていた。そこで、鷲見先生や柳谷先生のご尽力で、昨夜、偲ぶ会が開かれた。
参会者は百人を優に超え、どなたがどなたなのか見当も付かず、ご挨拶することも出来なかった。残念である。
 会の様子と、生前、先生から聞いた話とを併せて記しておきたいと思う。
司会は鷲見洋一先生。20秒の黙祷に続いて、鳥居泰彦元塾長による別れの言葉。
 鳥居先生が話されたのは、井上先生の大学での経歴と、すぐ田舎に引きこもるので、隠棲するのかとはらはらしていると、ちゃんと大学や慶応高校(New York)で活躍してくれた、というようなこと。
 それから白いカーネーションを、親戚の方々や身近な方が手向けた。歓談の合間に誰でも自由に献花してくださいと言われたので、私も一本、供えました。
 そうして、中部大学理事長の飯吉厚夫先生による献杯
 飯吉先生について、井上先生は、「ぼくが安曇野のすばらしさを喧伝したところ、実際に訪れて、やはり安曇野に惚れ込んで、すぐ近くに別荘を入手した」とおっしゃっていて、「ぼくではなく、安曇野の魅力にやられたんだ」と強調しておられた。気の合わない人のそばに、だれが好んで来るものですか、と思ったけれど、黙って聞いておいた(笑)。井上先生は安曇野が大好きで、安曇野を好きになってくれることの方に価値を置いたのだと思う。

 歓談の時間をはさんで、親しい友人の方々が偲ぶ言葉を述べられた。
 吉増剛造さんは、井上先生の鋭い眼光に射すくめられた、何をやってる、と言われたような気がしたという話と、井上先生の母君が「てるちゃん」と呼んでいた思い出と、戦後の貧困時代に妹さんたちを亡くしていて、そういう重い物を裏に隠し持っていたと思うというような話しをされた。
 吉増さんやドラムカンで一緒だった人たちの話は、大学時代にもよく聞かせてもらったし、再会したおりにも、もちろん話に出た。吉増さんの最近の詩業についても、すごいものだという話にはなっても、否定的な話は私との間では出なかった。現代詩の行方にとても厳しい見方をされていたという話は、献辞の合間にも出てきたのだけれど、あまりそういう話はしなかった。むしろ世界情勢そのものを憂うというような、大きい方向の話で私とは盛り上がった。文学の話は、また今度と、自分は考えていたのだと思う。次はない、ということが人生ではしばしば起きるということを失念していた。
 次がSFCを一緒に立ち上げた富山優一先生。井上先生のことを戦友・同志とおっしゃっていたけれども、井上先生の方も思いは同じであったと思う。立ち上げの時に、並んだPCに電源が入った時、新しい時代を感じたと井上先生はおっしゃったが、SFCは時代に先駆ける、大学改革の成果であった。
 沓掛良彦先生は、訳詩集を井上先生が褒めてくれたのをきっかけに付き合いが始まったという。(礒崎さんによると、書評を井上先生が書かれとのこと。)沓掛先生のことも、大事な親友の一人として名前を挙げて、とても楽しそうに、どんな人物なのかを話された。「変わったやつで……」。井上先生が最新の詩集を出された後、沓掛先生は、その詩業が素晴らしいと思って、とにかく逢いたくなって病室を訪ねたという。まさかその二週間後に亡くなるとは(絶句)と。実際に逢った数は多くはないが、大事な大事な心の友、「私は詩を書かないから詩友とは言えないけれど」。いやいや、だって詩を訳されるのだから、沓掛先生だって詩人ですよ、まさに詩友でしょう。井上先生もそう思っておられるでしょう。
 それから教え子代表として、SFCの第一期生の曽我晶子さんが話をされた。卒業後にもOBゼミをやって、先生と読書会をしたりしたとのこと。その博覧強記と鋭い見識に心酔していたという話。曽我さんの話も話題になったことがあった。「ぼくの教え子で、オーストリア大使館に勤めているのがいて……」。オーストリアの文化を日本人にもっと広く知ってもらうために何が出来るかということの相談に乗っておられたようである。
 井上先生の教え子さんのことでは、ほかにも相談されたことがあって、面倒見が良いというのか世話焼きというのか。情熱的でかつさっぱりした、その感じは、関西人というより、江戸っ子気質な感じ。私は、学生時代は、先生は江戸っ子だと信じて疑っていなかった。
 そのあと秋田勇魚さんによるギター演奏(アルハンブラの思い出)。秋田さんは、國枝孝弘先生(井上先生の教え子の仏文学者で、詩の弟子でもある)のゼミ生だそうな。
 そして親族代表で従兄弟の本間京太郎氏(井上先生の父上と本間さんの母上がきょうだいだそう)の挨拶で閉会となった。
 お嬢さんの摩耶さんは体調不良で欠席となったが、代わりに全員にメッセージが配られた。

 二時間あまりの会であった。ご挨拶できなかったみなさん、ごめんなさい。いいトシをしてああいう席での振る舞い方が判っていません。
 いつかまたみなさんにお目にかかれるでしょうか。