まったく本質的でない意見

 大阪府橋下知事は、府の平均学力が低いのはケータイに時間を割いていることも一因、いじめの温床にもなるし、ケータイを公立の小中学校に持ち込むのは禁止だ、と条例制定を提案したと言う。
 よくもここまで本質的でない発言が出来るものだと思う。

 ケータイは小中学校のほとんどで持ち込み禁止である。親が子供の登下校に関連して強い不安を抱えている場合に限り認めている、というのが大筋ではないだろうか。今さら条例を制定して、学力やいじめの問題が軽減するということはほぼ100%考えられないのではないか。ケータイを学校に持ち込まなくても、家で使う。今までもそうしてきたのだ、多くの子どもたちは。条例にはどんな意味があるのだろうか。抑圧装置としての学校の役割を大上段にふりかざすこと、これだけではないか。
 学力問題に関して府が出来ることは、教師の人員を何とかすること、学校を差別化しないこと、という予算面が第一のことであろう。子供の学力に関しては、親が子供にまで気が回らないような、逼迫した状態も関係するので、経済全体の立て直しとか、あるいは雇用の問題とか、迂遠だが、そちらの方が重要である。社会全体をもう少し明るくしなければ(抽象的な言い方だが、表面的にそうなっても仕方ないということはわかってもらえるだろう)。それができるのが政治家のはずなので、出来ないような政治家なら、そんなものは要らない。無用というより害悪である。
 
 子供は大人の社会を反映して育つのだ。子供は親の思うようには育たない、親が育てたように育つのである。抑圧されることが大きければ、それを発散させる場が必要で、私たちが子供の頃は、肉体を使う(一般的な子供は外で思い切り遊ぶ)か現実逃避をするか(我々オタクのように本やテレビの世界などに逃げ込んで世界を閉ざす)、さもなければいじめに走る(抑圧過多なのであろう、よゐこや優等生に多かった)だったのだが、今は前者の道を閉ざされている子も多いので最後の道に入り込む子が増えたのだ。これでゲームのような逃避の手段がなかったらどうなるかとぞっとする。
 ケータイは逃避の手段としては最もろくでもないのだが、これを作って、子どもたちにも持たせようとしたのは大人の経済社会である。社会が不安だと煽るのも大人の経済社会なのである。自分たちも加担して、そのおこぼれに与る。知事もテレビタレントだったのだから、そういう経済社会の恩恵を最も受けていたはずである。そういう経済構造の中にいるから、そういう非本質的な発言でお茶を濁そうとするのか。あるいはまったく何も考えていないのか。後者の方がありそうだが。

 橋下知事はこうした短絡的な発想の、実効のない政策とも言えないものを考える人なのだ、と言われても仕方がない。新聞記事ではよくわからないが、そういうツッコミを入れる記者とかいないんですかね? あ、日本の記者はそんなことが出来ない(許されていない)のか。
 少し前には、私立高校助成金の打ち切りに関して、訴えに来た高校生を傲慢に斥け(政策が気に入らなければ自分たちで大人になって政策変更をしろ)、説明責任も果たせないのか、と唖然とされたが、要するに考えていない(予算全体に対する理解がない)ので説明が出来ないのだろう。
 そのような人物が大阪府立児童文学館の廃止、蔵書の散逸を訴えている。さまざまな条件や後先のことは何も考えていないで、場当たり的に言っているだけの「ちょっとした発想」以外の何だというのだろうか。数年で任期を終える知事に、百年先のことをも考えて行われてきた数十年の営為をぶちこわすだけのどんな根拠があるのだろうか。大阪府にだってもっとどーでもいい、既得権益の巣窟みたいなものがあるだろうに。