ファンタジーのブーム

私が幻想文学というジャンルを意識したのは、1978年、大学入学以後のことである。それ以前に、『指輪物語』や児童文学のメルヘン、SFに触れていたが、ジャンル意識というものはなかった。『指輪物語』は非常に孤立した、きわめて特異な小説だと考えていた。大学の図書室で初めて妖精文庫と幻想文学大系に触れ、これらをすべてひとくくりにする思想があることを知ったのだった。幻想文学というジャンルのイメージを決定したのは、国書刊行会幻想文学大系であったろう。そして、幻想文学の中のサブジャンルとしてのファンタジーは、ハヤカワ文庫FT(1979創刊)によって、そのイメージを決定づけられていったと言えよう。児童文学のファンタジーの売れ行きが今ひとつで、アダルト・ファンタジー・シフトとなったのは、そうしたものを待ち望んでいた読者がいたということで、おそらくそこには「もっと指輪物語を!」という感覚があったのではないだろうか。
1982年、エンデの『はてしない物語』がヒット作となり、ファンタジー・ブームが起きた。ファンタジーという言葉は一般的ではなく、書店でアルバイトをしていた私は、「剣と魔法の物語」というヒロイック・ファンタジーの呼称で、もろもろのファンタジーをアピールした。当時は、幻想文学への欲求が全般に高まっていた。だから、『幻想文学』という雑誌もある程度の成功を収めたが、基本的にマイナーなミニコミ誌であり、大きなブームの影響を受けることはなかった。菊地秀行が超売れっ子作家になっても、そのシネマ・エッセーの載る小誌が爆発的に売れるなどということは起きないわけである。ファンタジーがブームになっても、あるいはホラーがブームになっても、『幻想文学』が売れるわけではない。ただ、ファンタジー・ブームやラヴクラフト・ブームが起きたので、コアな読者層もそれなりの数を確保できた、とは言える。
80年代半ばにファンタジー・ブームが起きてきた時、『幻想文学』では、まず「インクリングズ」の特集をやっている。「トールキンなら売れるよね?」という感覚である。しかし、そこで「インクリングズ」にしてしまうので、読者をリストラしている(笑)。根本的に世間のヒット作とは無縁なまま、『幻想文学』は推移していくのである。続けて、ハイ・ファンタジーヒロイック・ファンタジーの特集を組んだが、ホラーに較べると売れ行きが悪かった。タニス・リーの翻訳まで頑張って入れたのに……。
個人的なことを言えば、本を読まない甥(当時小学生)が「ドラクエ」はやっているのを知り、複雑な気分だったのを覚えている。それはファンタジーなんだけど、わかってる? わかっていなかったということは、後に思い知らされた。2000年頃、あるラジオ局からファンタジーについての基本的なリサーチが来て、「ファンタジーって何ですか」と聞くので、「ドラクエとか知ってる?」と尋ねると、「ドラクエ世代っすよ!」と当然、というように声が返ってきたので、ファンタジーってああいう設定の……というと、そうなんだー、と簡単に納得してくれた。ファンタジーだっていう意識もなかったのね。まあ、こういう層と『幻想文学』はまったく縁がないのはわかっているんだけどね。
ドラクエ以後、ファンタジー設定のゲームがよく売れる状況になって、89年に井辻さんに話を聞いたとき、ファンタジーの方がSFより売れるんですって(信じられない、何という時代!)という話になった。88年に『ロードス島』が出て、この頃から国産ファンタジーがどんどん書かれて売れるようになっていったし、ひかわさんなんかも相当程度売ったと思う。ハリポタの異様なブームが起きたとき、思ったのは、なんで? この日本で? もっと面白い国産ファンタジーがいろいろあるじゃないの? とはいうものの、『幻想文学』では、私が真面目にライトノベルのファンタジーを読んでいなかったので、きちんとした紹介をしてきていないのだけど……。
幻想文学』では、東がホラーで、私がファンタジーという区分になっていたので、私が取り上げないと、ファンタジーは取り上げられないのね、基本的には。で、非常に忙しかったので、ライトノベルまでは手が回らなかったし、ゲームもできなかった。マンガはまったく読んでないし。だから、『幻想文学』本誌では、そのあたりがまったく手薄。それを何とかしたくて、『日本幻想作家事典』では頑張ったわけ。ゲームはまだ宿題として残っている。何とかしたいのだけど。
私自身は、ゲームもアニメもファンタジーなものはファンタジーとしての観点からもいつでも見ているけど、それが『幻想文学』に反映されることは、基本的にはなかったと思う。文芸の雑誌だし、私自身は、網羅していないといやだと思うたちなので、中途半端に取り上げたくない。ゲームやマンガはどうしても知らないことが多くて中途半端になる。ライトノベルもそうで、あの大量のものを、片端から読むだけの余裕が、本誌を作っている時にはなかった。だから、ほとんど無視してしまった。別物と思っていたというよりは、侮っていたというのに近い。一部しか読まずに全体を判断したという感じ。事典を作って多くのことを教えられた。今なら日本のファンタジー論が書けると思う。